トピックス
写真家・六田知弘の近況 2011
展覧会や出版物、イベントの告知や六田知弘の近況報告を随時掲載していきます(毎週水曜日更新)。
過去のアーカイブ
- 2011.12.28 護摩の火
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さっきまで吉野の金峯山寺で今年最後の護摩行の写真を撮らせていただいていました。まだその火の匂いが体にしっかりとのこっています。
今年はほんとうにえらい年になりましたが、この護摩の火でなんだか少し、自分も世の中も浄化されたように感じます。
来年は良い年となりますよう、ただただ祈るばかりです。(六田知弘) - 2011.12.22 この一週間
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たった今、東北の被災地での撮影から帰ってきたところです。今回は息子と二人で福島県のいわきと宮城県仙台市荒浜と今なお不通のJR仙石線沿線に行きました。4月初旬に行った時よりは、瓦礫が片づけられた分、非現実的な異様な光景を目の当たりにした衝撃は減少しましたが、家の土台だけを残してきれいさっぱり何もなくなった風景は、まるで墓地にいるようで、津波から9か月余りの時の経過というものが、私により深い悲しみを感じさせました。私は残された「モノの記憶」を写真に写し込めればと、シャッターを切り続けました。一緒に行った息子は、さて何を写したのでしょうか。
この一週間、あちこちを飛び回りました。夜行バスで奈良に行き、「磯江毅展」を見て、奈良国立博物館でJALカレンダー撮影の下見をし、その日の夜中に春日大社のおん祭りの遷幸の儀の行列を見て、その翌日は吉野山の蔵王堂で護摩の炎の撮影をし、また夜行バスで東京にもどり、すぐに車で東北の被災地に向かいました。
それぞれ、私にとっては印象深いものでしたので、また、機会を見てこのトピックスに書こうと思いますが、今はとにかく布団にもぐりこもうと思います。 (六田知弘) - 2011.12.15 磯江毅の画集を見て
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写実の画家 磯江毅の画集を見ながら考えたこと。
対象物自体が(その存在自体が)発する複雑で多様なベクトルの波動を、五感(時には六感)を開き、可能な限り無色の受信機となって感じ取り、それをカメラで写しとること。そのことが写真家としての私の「表現」であるのだと、あらためて強く思いました。
それにしても彼の作品をみていて感じる、酸素が不足して呼吸困難になりそうな感覚はどこから来るのでしょう。実際の絵を見なくてはと思います。 (六田知弘) - 2011.12.09 サクリファイス
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一か月のウォーキングマシーンによるトレーニングの甲斐あって、体重が約3キロ減り、中性脂肪も正常値にまで落とすことができました。ここで、リバウンドしないよう、できるかぎりトレーニングを続けねばなりません。
昨夜は、タルコフスキーの最後の作品である「サクリファイス」の後半をビデオでみながら、ウォーキングマシーンで汗を流し、そのあとゆっくりと25回を4セット、合計百回の腹筋運動をしながらその映画のラストシーンで涙を流しました。
バッハのマタイ受難曲のなかの「憐れみたまえ、わが神よ」が流れる中、枯れた「日本の木」に水をやる少年の前を救急車が通り抜ける。そのなかには自らの家に火を放った少年の父親がいるのだが、少年はそれを知らない。少年は枯れた木の根元に仰向けに寝ころんで、ひとこと「初めにことばありき・・・。なぜなの パパ」とつぶやく。カメラは、少年が寝ころぶ枯れた木の根っこからゆっくりと幹の上方まで持ち上げられる。枯れた木の枯れた枝が、背景の入り江の水面の反射光をうけて、逆光のなか、風でかすかに揺れている。そして、木の先端まで行ってカメラの上昇は止まり、「この映画をわが息子○○○に捧ぐ。希望と確信をもって」という A・タルコフスキーのことば記される。
この映画をはじめて見た25年ほど前の私にはもちろん子供はいなかったけれど、あの時も、19歳の息子の父となった今も、このシーンを見てやっぱり同じ、タルコフスキーからのいまだ解くことのできない謎に満ちたメッセージによって、(日本人である)私の魂は大きく揺さぶられてしまうのです。
年内に、息子と二人でカメラを持って、東北の被災地に再び行こうと思っています。 (六田知弘) - 2011.12.02 燃える葉
12月に入って東京はいきなり真冬のような寒さになりました。高幡不動の裏山をいつものように駅に向かいます。氷雨に煙るひかりのなかに、意外なほどに明るく、楓の葉っぱが燃えていました。たいへんだった2011年も残すところあと一月かと思うと、思わず何かに向かって手をあわしたくなるような気がしてきました。(六田知弘)
- 2011.11.24 大峯山奥駈の写真
一昨年夏に吉野金峯山寺の大峰奥駈(おおみねおくがけ)修行に同行させてもらい撮影したものの整理をしています。その写真集を来年の3月に出版する予定です。
奥深い山中を浮遊するごとく駈ける人々。私のものとしては、久々に人が写った写真です。
人間と自然、そして人間と宇宙とのつながりを、実際に私もいっしょに歩いて写真を撮ることによって、ほんのわずかながらも、あらためて、確かめられたような気がしています。(六田知弘)- 2011.11.17 ウォーキングマシーンとタルコフスキー
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情けない話ですが、先日、健康診断をして、中性脂肪が高すぎるということがわかり、これはいかんと、ネットで格安の電動ウォーキングマシーンを買いました。それで、ここのところ毎晩、ビデオを見ながら汗を流しています。
見ているビデオは、今のところは、ロシアの映画監督アンドレイ・タルコフスキーの作品ばかり。タルコフスキーの作品は、筋があってもそれはそれほど大事ではなく、なんというか、イメージの断片の折り重なりのようなものでできているので、途中から見ても、途切れても、少なくとも私にとってはかまわない。ですから、ウォーキングマシーンを使いながら、断片的に見るのに都合がいいのです。「サクリファイス」から「ノスタルジア」「ストーカー」に「鏡」そして「惑星ソラリス」「アンドレイ・ルブリョフ」、そして「僕の村は戦場だった」「ローラーとヴァイオリン」。それぞれ学生の頃からもう10回以上は見ているのに、こうして断片的にみていると、そのシーンを初めて見るように、いつも新しい発見をするのです。それとともにますます謎も深まります。なんだかこれは、クレーの作品を見ている時と似ているように思います。クレーの画集をめくっていると、もう何度も何度も見ているはずなのに、本当に初めて見る作品に思えてくる。謎はどんどん深まります。自分は、いつもタルコフスキーやクレーの作品のなかに一体何をみて、なににひかれているのでしょう。それこそ大きな謎ともいえるのです。
アンドレイ・タルコフスキーの父親である詩人アルセーニー・タルコフスキーの詩集「雪が降るまえに」に日本語翻訳出版に際して、と題して、彼の娘であり、アンドレイ・タルコフスキーの妹であるマリーナ・タルコフスカヤが、父の詩について、このように書いています。
「永遠について―すなわち、人間について、人間の運命や魂について、宇宙における人間の位置、宇宙や自然と人間との根源的なつながりについて―」タルコフスキーの詩は語るのだ、と。おそらくこれは、父子二人のタルコフスキーについての言葉でしょう。
この永遠の謎のようなものに、私も、もしかしたらずっと前からはまってしまっているのかもしれません。(六田知弘) - 2011.11.11 早来迎
東京国立博物館で知恩院の阿弥陀二十五菩薩来迎図(=早来迎)を見ました。約1.5メートル四方の大画面に近寄って右下のほうから見上げると、阿弥陀さんと菩薩たちが、極楽から高速の雲に乗ってお迎えに来るのがえらくリアルに観じられました。
今のところ私はそれなりに元気でまだお迎えは早すぎるはずなので、今回の便は、もちろんこの絵の右端の庵の中の偉そうなお坊さんを迎えに来たのでしょうが、目の前で展開する場面のその真迫感に、画面のずっと上の化宮殿の向こうのほうに私を迎えにくる阿弥陀さんと菩薩の姿が小さく見えるのではないかと思わず探してしまうほどでした。(もっとも、私のような凡夫をこんな金ぴかのきらびやかな仏さんたちが勢揃いして迎えに来てくれるとは思えないのですけれど…。ただ小学生のころ、夢に金色の阿弥陀さんの姿を見たような記憶がぼんやりとあるのですが、もちろんこれは、「お迎え」ではありませんでした。)
阿弥陀さんたちが乗る雲の下のごつごつとした岩山には白く滝が落ち、数本のヤマザクラが赤茶色の幼葉とともに満開の薄紅色の花をつけています。その下の谷底には、しぶきをあげながらとうとうと流れる青黒い川。その川を私は見下ろすように見上げます。川岸に白い花をつけた一本のコブシの木。(これはサクラのように見えるけれど、花びらが真っ白で、赤い幼葉もないのでコブシではないかと私は推測したのですが、ヤマザクラとは別種の桜かもしれません。ただコブシは遠くから見ると桜とよくまちがいます。)
二十五菩薩と化宮殿の間には、小さな12体の化仏が浮かび、その周りには6枚の先端が紅色の蓮の花びら。仏の宇宙空間に浮かぶ蓮弁です。
こんな光景を目の前にしながら私は、山と瀧と桜の写真展をしたいなと、ふっと思ったりしたのでした。
この展覧会「法然と親鸞」の後半には、早来迎にかわってこれも私の大好きな禅林寺の「山越阿弥陀図」が展示されます。また行ってみようと思います。 (六田知弘)- 2011.11.04 小海町高原美術館での「シトーの光」
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秋晴れの気持ち良い空気の中、中央自動車道をとばして長野県の小海町高原美術館で開催中の「聖地・祈り・幻想 写真に見る内なる世界」に行ってきました。井津健郎氏とクリタケイコ氏と私の3人の写真作品が展示されています。
私は、オープニングの時以来ですが、あらためてその展示空間に立ってみて、シトー会修道院独特の影の中に差し込む白い光の空間に、自分が浮遊しているような感覚をおぼえました。これは、実際に写真を撮っていたときに常に感じていた感覚です。作品の構成や展示室の光の調整、美術館建築とのバランスのとり方などが非常にうまくできているからこそ生じる「光の共鳴」のようなものがそこにはありました。絶妙の展示です。
少々遠いし、期間は11月13日まで(火曜日休館)で、あとわずかしかありませんが、小海町はいま黄葉真っ盛り。近くにいい温泉もあります。無理をしてでも行って損はありません。(六田知弘) - 2011.10.27 石の時間
ここのところ那智の瀧に続いてずっと石の写真を整理しています。瀧と石の発するパワーにあてられてか、正直言って結構こたえています。
今年6月に撮った、イングランドのAvebury(エイヴベリー)というところにある巨大なストーンサークルのひとつの石の上に月が出ていました。
石の時間と、月の時間とそれを見ている私の時間。その3つの時間がここで重なったということが不思議といえば不思議なことに思うのですけれど・・・。(六田知弘)- 2011.10.21 2012 JALカレンダー発売中
来年のJALカレンダーができました。日本の古美術品の写真で構成されたJALアートカレンダーの写真は、数点よそから借りてきたものがありますが、新撮分はこの5年、私が撮っています。JALが昨年ああいうふうになったので、来年の分が出せるのかどうか随分心配しましたが、なんとかできてほっとしています。
今回撮ったなかで、特に私のお気に入りの写真は、2月の松浦宮物語(東京国立博物館蔵)と12月の木喰行道作の十一面観音像(新潟県小栗山観音堂蔵)です。両方ともどちらかといえば地味なものですが、私自身、結構それぞれ違った意味で味わいながら撮ることができました。それが皆さんに写真から伝わればうれしいのですけれど。
このJALアートカレンダーはすでに発売されています。大手の書店や東急ハンズ、空港のJALプラザ(11月1日から)などでも売っていますが、AmazonやJALショッピングなどインターネットでも購入できます。(1575円) 2011年のものは、11月のうちに売り切れたということですので、もしご購入いただけるようでしたらお早めに。
是非2013年のもやりたい仕事です。(六田知弘)- 2011.10.14 月夜のフクロウ
放射能の影響でか今年はあまり鳴かないなと思っていたアオマツムシが、今になって街路樹の上からリーリーとほかの虫の声がかき消されるほどやかましく聞こえるようになった東京郊外の住宅街。普段よりちょっと早めの犬の散歩の帰り道で、6メートルほどの幅の道をまたいでかかる電線にとまっている一羽の鳥の影が目に入りました。月明かりでほの明るい夜空にシルエットとなって浮かぶその後ろ姿は、牧谿筆の叭々鳥や蕪村の烏の絵のように見えます。はじめはてっきり巣に帰り遅れたちょっと太りぎみのカラスだと思ったのですが、その電線の下を通り過ぎてからふりかえって見上げてみると、その烏には首がない。ちょっとぎょっとしましたが目を凝らしてよく見ると、それはなんとフクロウではありませんか。
ホッホ、ホーホ ホーホというフクロウの鳴き声やコッコッコッというアオバズクの声は、ここらでもときどき聴こえてくることはあるのですが、こんなに間近でその姿を見ることができるとは驚きです。あたまに耳のような羽根がないので、いわゆるミミズクではなく、フクロウなのですが、そのハート形の顔?のかたちや白黒の胸の模様からしてそいつはおそらくフクロウ科のフクロウ(ホンドフクロウ)なのでしょう。とっさにカメラがないかと自分の身をさがしたのですが、夜の犬の散歩にさすがにそれは持っていません。しかたがないので、この目にしっかりその姿を焼き付けようと、引っ張る犬を無視してじっと下から見続けていると、相手もこっちを意識して、その首をおもちゃのように回して、大きなまん丸の眼で私の顔を覗き込みました。フクロウと私の視線が交わること5~6秒。その間のごく一瞬(?)、フクロウの眼と私の意識が入れ替わり、夜の路上で犬に引っ張られながら上を見上げている私の姿を電線の上から見下ろしている、そんなおかしな感覚がありました。
そしていきなりそいつは大きな翼をもちあげたとおもうと、羽音もたてずに、向こうの黒い電柱にむかって夢のように飛んでいったのでした。
ミネルバのフクロウが私に知恵を運んできてくれたということなら本当にうれしいのですけれど・・・。(六田知弘)- 2011.10.06 石の写真
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金木犀のかおりが、街角で漂うころになりました。空気もひんやりとして、すこし前より、ずいぶん密度を増して張ってきたように思えます。
そんななかでイギリスやアイルランドで撮ってきた石の写真を見ていると、この空気を通して、石たちが発する声というか、ざわめきというか、波動というかそういうものが、より強く伝わってくるように感じられます。
気候の変化が急だったせいか、ここのところ少々風邪気味ですが、これからしばらくは石の写真をまとめることに集中しようと思っています。(六田知弘) - 2011.09.30 秋の虫
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ひさびさに私が住む東京近郊にも被害をもたらした台風15号が去った後、ぐっと季節がすすんだようで、(金木犀の香りはまだですが)空気の匂いと色がすっかり秋らしく感じられるようになりました。
今年の夏は、なんだかアブラゼミの声があまりにも弱々しかったので、秋の虫がどうだか少し気になっていたのですが、犬の散歩の途中、いつもの草むらで私の好きなルルルルル・・・・というカンタンの声を聴いて一安心。オカメコオロギやエンマコオロギやカネタタキの鳴き声も聴こえてきます。でも、毎年街路樹の上でうるさいほどに大きな声で鳴きつづける外来種のアオマツムシの声は今年はあまり聴こえてこないように思えます。こうした虫たちのいつもなら気に掛けないようなささいなことにも、今年は、放射能の影響があるのじゃないかとついつい考え過ぎ?になってしまうのは、悲しいことです。被災地や福島第一原発周辺の方々のもっともっと深刻な状況を思うと、そんなのんびりしたことを考えるのは申し訳ないこととは思うのですが・・・。
千葉市美術館で開催されている「浅川伯教・巧兄弟の心と眼―朝鮮時代の美」展を見てきました。朝鮮陶磁では世界屈指のレベルを誇る安宅コレクションのあの名品のいくつもが、すでに浅川兄弟の眼を通っていたことを知り、いろんな意味で、ちょっとばかし衝撃を受けてしまいました。
それともうひとつ、足立区千住大橋にある石洞美術館というところで「ヒンドゥー美術展」を見ました。この美術館に行くのは私は初めてで、館蔵品のほとんどがある一人の会社経営者のコレクションからなっていると知人から聞いていたし、チラシやDMのデザインがパッとしなかったので、失礼ながらあまり期待してはいなかったのですが、中に入ってムム・・。みなさん、一見の価値は十分ありますよ。ヒンドゥー美術は我々日本人にはちょっと違和感があってなじみにくいのですが、そこに並んだいくつかは、そんなことを通り越して、私のこころをぐっと掴んでしまいました。12月18日までこの「ヒンドゥー美術展」はやっているので、私は、期間中にもう一度は訪れたいと思っています。(六田知弘) - 2011.09.22 台風、那智の瀧
9月21日。台風15号が迫り来る中、丸一日、ここ3年間に撮った那智の瀧の写真をパソコンの画面にむかって整理していました。3000枚近い画像を一点一点調整しながら絞り込んでいくのですが、台風が潮岬に接近しているとか、浜松に上陸したとか、関東が間もなく暴風域にはいるとか、合間合間にテレビをつけて情報を得ながら、ずっと画面に向かい続けていました。
先日の台風12号の豪雨で、その那智の瀧も大岩が流されたり、滝壺の形が変形したりしたようですが、滝ができてから何万年たっているのかわかりませんが、その間にその形が常に変わり続けていたわけで、あらためて驚くことでもないでしょう。実際、7~800年前に描かれた「那智瀧図」と今の瀧とは、瀧自体や滝壺の形も随分違っているように見えます。
暴風域にはいって、ゴーという風の音や、家の窓や何かがガタガタと震えるのをBGMにして、那智の瀧のうねりながら舞い上がる飛沫の画像を連続して見ていると、なんだか恐ろしくなってきて、古代からこの瀧それ自体が「ご神体」、つまり「神」として祀られてきたということが、より一層わかるように感じられてくるのでした。
ナンセンスなアニミズム的思い込みだと言われればそうかもしれませんが、とくに震災以降、今こそ、自然と人間とのかかわり方を、我々はもう一度、真剣に見直してみる必要があると、私には思えるのです。(六田知弘)- 2011.09.15 震災から半年、ヨーロッパ巡回「サンティアゴ巡礼の道」写真展
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震災から半年が経ちました。こういう時こそ政治的には、未来を見据えた強力な指導力が必要なのに、なんともたよりない。被災地の復旧、復興により力を注ぐとともに、脱原発に向けての明確なヴィジョンを持って引っ張っていく強力な力がほしい。それを遂行するためには、我々国民も何らかの負担が必要になってくるでしょうが、それはある程度はしかたがない。今やらなければ何時やれるのでしょうか。
話はかわりますが、今、ドイツのハンブルグで「サンティアゴ巡礼の道 六田知弘 東洋のまなざし」という写真展をやっています。この写真展は、2008,9年に和歌山、サンティアゴ、パリ、東京を巡回したルイス・オカニャとの二人展「祈りの道 サンティアゴ巡礼の道と熊野古道」のうち私が撮ったサンティアゴ巡礼路の写真約30点で構成されています。2009年からスペイン国内をはじめ、ヨーロッパ各地を巡回していて、今年から来年にかけては、主にドイツを巡るそうです。スペインのガリシア州政府関係の組織がその写真展の企画運営をしていて、私もあまり詳細は知らないのですが、開催地や期間がわかれば、このホームページでもお知らせしますので、現地に行かれるようなことがあればお立ち寄りいただければと思います。 (六田知弘) - 2011.09.08 カンボジアから帰国しました
カンボジアでの撮影から帰ってきました。今、目をつむると、崩壊した寺院の、山のように積み重なったなった石の塊が、網膜に焼き付けられた残像のように浮かびます。大きな波にもてあそばれながら、海原を延々と泳ぎつづけていた気分です。
帰りの飛行機で読んだ新聞で、台風で紀伊半島が大きな被害をうけたことを知りました。私が撮り続けている奈良県の吉野南部、そして熊野です。カンボジアに行く2週間ほど前にも私は、そこに行ったばかりだったのですけれど・・・。なんだか世の中が、そして自分の内面が、ぎしぎしと音をたてながら変動いているような気がします。
ところで、9月17日から11月13日まで、長野県の小海町高原美術館で、「聖地・祈り・幻想 写真に見る内なる世界」という展覧会が催されます。
これは、井津建郎氏、クリタケイコ氏、そして私の三人の写真作品を展示する企画展です。
私は、「シトーの光」シリーズのなかから19点を大判プリントで展示します。
世代や技法がことなる3名の作家の作品を通じ、写真の内なる世界を感じてもらいたい、とチラシには書かれています。
高原の澄みとおった空気のなかで、そして、シトー会の建築に大きな影響を受けた安藤忠雄設計の美術館のなかで、シトーの写真を見るのもいいかもしれません。詳しくは、publicityのコーナーをご覧ください。(なお、9月17日(土)、15時からオープニング・レセプションがあり、そのときにアーチスト・トークがあります。) (六田知弘)- 2011.08.31 ベンメリア「石の海」
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朝からツゥクツゥク(バイクの後ろに座席を取り付けたもの)に乗って、でこぼこ道を1時間40分、アンコール遺跡群から60数キロほど離れたベンメリアという遺跡に行きました。ベンメリはアンコール・ワットとほぼ同じ時期に作られた大規模な石造りの寺院で、今は、自然の力により完全に崩壊したままの状態で、森の中にひっそりと残っています。一昨年の11月にもここを訪れて、このトピックスにも書きましたが、ここは、まさに「石の海」。寺院の建材であった無数の石材が崩れ落ち、波のようにうねっていくつもの山のように積み重なっているのです。今日は、一日、シャツの中に入った大きな頭の真っ赤なアリに腹や脇の下を思いっきりかまれながら(もっとももともとアリの行列のなかに足を踏み入れ、体の安定を確保して写真を撮ろうとした私が悪いのですが・・・)、そして何度も大きな波にのまれそうになりながら、ひとり、延々と石の海を泳ぎ続けていたような感じです。 (六田知弘)
- 2011.08.26 カンボジアへ
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東京もずいぶん秋の虫の声が聞かれるようになりました。雨上がりの夜、ルルルルルル・・・というカンタンの声もまだ弱々しいように思えますが、いつもの草陰から聞こえてきます。
明日から、10日間ほどカンボジアに写真を撮りに行ってきます。一昨年の12月に行った、崩壊したまま残されたクメールの遺跡の撮影が中心です。また、石の海で泳いできます。前に行ったときは乾季で一日中強い日差しが照りつけ、影も強かったのですが、今は雨季で、少しは柔らかい光のもとでも撮れるのではと思っています。現地からも1回はこのトピックスを書きたいと思っています。 (六田知弘) - 2011.08.19 白鳥陵の玉虫
大和の撮影をしていて、直射日光にたえかねて日本武尊白鳥陵の前の木陰で涼んでいたら、白い花崗岩の砂利のうえに虹色に光る玉虫の亡骸を見つけました。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は天皇である父の命を受け、十分な軍勢もないまま苦戦の末、熊襲、出雲、蝦夷を討った。しかし、大和への帰路、伊吹山の神との戦いに敗れ、傷を負い、亀山に辿り着いたところで死んだ。そしてその地に葬られたが、日本武尊は白鳥となって故郷大和へ飛んでこの琴弾原に降り立ち、その後、再び飛んで河内の古市に降り立った。そしてまた、何処となく飛び去った。ここにはそんな白鳥伝説が残っています。
「大和は国のまほろば たたなづく青垣山こもれる大和し美し」という歌をのこした日本武尊。その化身である白鳥は、故郷大和に一旦舞い降りながらも、何故またよそに飛んで行ったのだろうか、と掌にのせた玉虫を見ながら物思ってしまう、わが故郷の真夏の昼下がりでした。 (六田知弘)- 2011.08.11 草取り
お盆を前に、実家のお墓の草取りを母と二人でやりました。東京には少ないクマゼミの鳴き声が、シャラシャラシャラシャラと瀧のように、地面に屈む二人の上から降りそそぎます。悲しいほどに小さく縮んでしまった母の丸めた背中の背後には、父や祖父母や先祖の墓石が、白いひかりのなかに揺れるように立っています。左手に、夏休みには毎日のように虫取りに興じた山々の連なり。そして右手には、苦く、せつなく、そして楽しい思い出がいっぱい詰まった故郷の町並み。
津波や放射能で故郷を離れざるをえなくなった被災地の人々のことも頭をよぎり、いつの日か灰になったときには、自分もこの墓に入りたいと、なんだかしみじみ思ってしまう真夏日でした。 (六田知弘)- 2011.08.05 小川一真の仏像写真
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私の好きな写真家で、小川一真(1860-1929)という人がいます。「おがわかずま」と思っていたのですが、先日、息子に「おがわかずまさ」と読むのだと教えられました。
写真師として日本で最初に仏像の写真を本格的に撮った人で、あのコロタイプ印刷を始めた人でもあります。私は、十年ほど前に東京都写真美術館で開催された「写された国宝」という展覧会で、彼の撮った写真を見て、えらく感銘をうけました。興福寺の「無着」が、三月堂の「月光菩薩」が、唐招提寺の「如来トルソ」が、そして法隆寺の五重塔内の塑像群が、異様な気を放っているのです。
その展覧会の解説によると、「小川一真は1888年から89年にかけて行われた近畿宝物調査に、写真師として随行し、それまでの調査では古社寺の外観写真にとどまっていたのだが、より撮影が困難で手間がかかる、仏像や絵画、工芸品などの宝物を撮影した。」とあります。まさに、日本の仏像写真、古美術写真の草分け的存在です。
先日その「写された国宝」展の図録にある小川一真の写真を見ていて、あらためて驚いたのは、110年も前の日本の写真の草創期に撮られたにもかかわらず、そして、調査の記録という目的で撮影されたにもかかわらず、仏像という被写体に対して、明らかに、そのもの自体のもつ「美」あるいは「魅力」を、小川一真という個人の眼を通して、写真機で写しとろうと意識されていること、そして、それが後の写真家には達しえないほどのレベルで捉えられていて、一つの非常に高度な写真作品として成立しているという事実です。
仏像などの文化財などのように、それ自体が大きな意味あるいは価値を持つ被写体を写すことが多い写真家として、私は、「記録」ということと「表現」ということとの葛藤を常にかかえています。小川一真の仕事はそんな私に何か大切なヒントを与えてくれるような気がしています。 (六田知弘) - 2011.07.28 胎蔵界曼荼羅-澄みとおった闇
昨夜、帰宅の途中、今年初めての羽化したてのアブラゼミを見ました。例年だと、この時期には、ちょっと神秘的な羽化の様子をあちこちで見ることができるのですが、なんだか今年は、セミ(特にアブラゼミ)が鳴くのが遅く、数もかなり少ないように思います。地震の影響か、それとも春の低温のせいなのか、あるいは、たまたま今年は周期的にいってセミの少ない年だということなのでしょうか。
ところで、東京国立博物館で開催されている「空海と密教美術展」を見てきました。平日なのに、結構込んでいました。東寺、醍醐寺、仁和寺、そして金剛峰寺など、空海ゆかりの寺々から、随分たくさん有名なものが来ていました。ただ、仏像のあのドラマチック?なライティングや中心に位置するはずの大日如来のいない立体曼荼羅の見せ方には、私はかなりの苛立ちを覚えてしまいました。それに加えて私のお目当てのひとつである仁和寺の宝相華迦陵頻伽文蒔絵冊子箱も角度的にうまく見えず、全体的にあまり落ち着いた気分で見てまわることができませんでした。
しかし、東寺の胎蔵界曼荼羅にはえらく強く惹かれました。あの大画面を間近に見ていると、中心の大日如来にむかってぐるぐると渦巻く仏に満ちた大宇宙に、自分がクーッと吸い込まれていくように感じます。「澄みとおった闇」とでもいうのでしょうか、恐ろしく澄明な明るさをもった闇の引力です。胎蔵界が金剛界に代わる前に、もう一度見に行こうと思っています。 (六田知弘)- 2011.07.22 蓮花
高幡不動の境内で、今年も鉢植えの蓮の花が咲いていました。時刻は昼過ぎなのに、まだ花が開いているのはおかしいと思い、近づいてよく見ると、連弁の縁は縮れて、黄色いおしべが全てへたっていました。やはり、この花はすでに閉じる力も失せて、あとは、花びらを散らすだけなのでしょう。しかし、梅雨明けの光を浴びた緑の花芯は、まるで生菓子のように潤いのある艶っぽさがあり、妙に心ひかれました。(六田知弘)
- 2011.07.15 表現の再生
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先日、ある写真関係の編集の方が、東北の被災地には多くの写真家が行ったと思うが、被災地を凝った手法で絵作りした写真はまだ今のところ見ていない、と話しておられました。確かに、(震災の2~3週間後にある週刊誌に掲載された極めて陳腐な写真と文以外に)私もそうしたものは見ていないように思います。震災後4か月ですから、まだこれから発表されてくるのかもしれませんが、それは簡単なことではないように思えます。実際に私もあの瓦礫のうえに立ちましたが、あの圧倒的な現実を目の当たりにすると、バカでない限り、小手先の芸術的?表現などできようはずがありません。
他の美術関係の編集者からは、東日本大震災を境に作品制作ができなくなってしまったアーチストが結構いるようだと聞きました。
あるアートディレクターからは、某大手広告代理店のバリバリのやり手女性スタッフが、震災後、今まで自分がやってきた仕事はいったいなんだったのかとその空しさを嘆いていたと聞きました。
震災とそれに続く原発事故で、日本の根幹がずれました。それが表現の世界にも大きく作用していることは、いうまでもありません。これを境に忘れられ消えていく表現もあるでしょう。逆に見直される表現もあるはずです。そして、これから新たに生み出される再生の象徴ともいえる文化的ムーブメントも起こってくるように思います。
今は、停滞あるいは退行しているように見えていても、これは新たな生への脱皮の苦しみなのだと思うのです。死と隣り合わせの(昆虫の飼育をしていて、脱皮中に息絶えた虫をいくつも見てきました。)この試練を乗り越えたとき、どんなものが生み出てくるのか私には想像もつきませんが、その微かな胎動のようなものを、私は今、なんとなく感じています。(六田知弘) - 2011.07.08 三匹の変な生き物
私の家にはもう10年以上飼っている三匹のちょっと変わったいきものがいます。いずれも生き物好きの息子が幼稚園のころに買ってきたもので、いまや生きる骨董品みたいなものです。
プロトプテルス・ドロイというアフリカのハイギョ(肺魚)とマタマタというヘビクビガメ科の亀、そしてスッポンです。ハイギョは古生代デボン期(約4億年前)からいる古代魚で、体はうなぎのように細長く、紐のような胸びれと腹びれをもち、鰓ではなく時々水面に上がってきて口で空気呼吸をします。写真のようにつぶらな眼のかわいいやつです。 マタマタは、南米の淡水に棲む大きな三角形の頭をもつ亀で、頭の方々にごみ屑のような突起をつけて、水底に沈んだ枯葉になりすましています。そしてじっとして獲物の小魚が近づくのを待ち、獲物がくると、ゆっくり首を動かしていき、瞬間的に獲物を水ごと吸い込むのです。
そして、ご存じスッポンは、平たく柔らかい甲羅をもち、口の尖った東洋に棲む亀です。用心しないとすぐに噛みつき、その口力は非常に強力で、いったん噛みついたらちょっとやそっとでは離しません。この前、水替えをしていてゴム手袋のうえから指に噛みつかれたのですが、その痕が一か月以上とれなかったほどです。
これまで私は、息子と一緒に多種多様な生き物を飼ってきました。自分たちで採ってきた川魚や磯の生き物、クワガタムシや蝶や蟻、アオマツムシなどの昆虫たち、トカゲやヤモリやイモリやカエル、ザリガニそして金魚やさまざまな熱帯魚・・・。それらは、すぐに死んでしまったものもいますが、うちでは比較的長生きのものも多く、カブトムシなどは、3代に渡って飼育、繁殖をさせました。近くの池で採ったシマドジョウは6~7年生きたでしょうか。しかし、この三匹ほど長生きなものは他にいません。
3匹は、家の隅っこのそれぞれの水槽の中から、私たち家族の生活をじっと静かに見てきました。息をするために水面にあがってきて、ゆっくりと水底に沈んでゆくハイギョのあの眼を見ていると、その中にどんな記録が残されているのかちょっと覗いてみたい気持ちになるこのごろです。 (六田知弘)- 2011.06.30 創造とエロス そして石
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今回ヨーロッパに行く直前に、国立西洋美術館でレンブラント展を見ました。そこであらためて感じたのは、その視線の中に潜む強烈なエロスです。そして、昨日、国立近代美術館で見たパウル・クレー展でもそのエロスが(クレーの場合はタナトスも)彼の創造活動においてとても大きい意味を持つことを強く感じました。
二人の芸術的創造のエネルギーの源泉は、彼らの内面に有るまさにこのエロスなのではないだろうか。画家はそのエロスを創造のエネルギーに変換し、そして、作品に昇華する。こんなことは、今更言うことでもなく、芸術家にとってはあたりまえのことなのかもしれませんが、なぜか今の私にとっては、結構大事なことのようにも思うのです。
実は、ヨーロッパで石の写真を撮っていると、一つあるいは複数の石がある磁場のようなものを形作り、そこから奇妙なエロスの匂いを発しているように感じることがありました。(というか、それを感じる石に私が無意識にカメラを向けていたと言ったほうがいいのかもしれませんが。)その匂いを嗅ぐとわたしの血と身体は騒ぎます。そこからは、なんというか、無生物であるにもかかわらず、生命の根源的なエネルギーのようなものが出ているように感じたのです。さてそれをどのように写しとることができたのか。
そんなことをいろいろと思い出しながら、撮ってきた膨大な数の画像から時間をかけて写真を選んでいこうと思っています。 (六田知弘) - 2011.06.24 石の撮影から帰ってきました
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ヨーロッパでの石の撮影から帰ってきました。成田に着いたら死ぬほどの暑さ。数日前まで薄いダウンジャケットの上に山用のジャケットを着て撮影していたのがうそのようです。
帰宅して、先ずやったことは、パソコンのハードディスクに撮ってきたデータを移すこと。ほとんど1時間もかかってやっと移し終えた画像データは、なんと13,652枚。よく撮ったものです。移動日を除いた24日間、朝から夜の8時、9時、ときには10時過ぎまで撮りっぱなしだったのでそれぐらいいくでしょうが、一回の撮影としては私の最多記録かもしれません。もちろん、たくさん撮ればいいというわけではありませんが、それだけ撮るものがたくさんあったということでしょう。久しぶりに充実感のある一か月でした。
さて、この膨大な石の山から宝の石を何個見つけることができるか。これからじっくりと時間をかけて、石の声に耳を傾けながら、掘り出していこうと思っています。
ところで、帰国前日、ロンドンで半日時間があったので、ロンドン・ナショナルギャラリーに行きました。14.5世紀から20世紀まで時代順に西洋絵画の名品がずらっと並んでいるのですが、私はイタリアの宗教画の古いところから順に、なにせ量が多いので、特に引っかかるものだけにじっくり時間をかけて見ていきました。
ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子像」は前から大好きで、自宅にも大きな複製画を壁に掛けてあるのですが、実物を見てまったく圧倒され、ヒエロニムス・ボスの「いばらの載冠」で、いつもの怪物が出てこなくても、やはりこいつはただものではないと思い、レンブラントの「川で水浴する女」を見て、モノの表面から何センチも入ってえぐり取るような視線にあらためてその魅力を感じ・・・。撮影の緊張感がまだ続いているのか、とてもいい調子で巡っていきました。
そして、閉館30分前にようやく19,20世紀のコーナーにたどりつき、ゴッホの最晩年の数枚の絵の前に立った時、私の脳の血管の一本が突然切れてしまったのでしょうか。いきなり涙があふれ出し・・・。こうして今回のわたしの撮影旅行は終わりました。(六田知弘) - 2011.06.15 ダートムア
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アイルランドからポルトガルのリスボンへ飛んでエヴォラという町の近郊の石を撮り、それからロンドンへ戻って、レンタカーを走らせてイングランドの南西の半島にあるデヴォン地方に来ています。
ここは、築150年余という、町から遠く離れた古い農家の一室です。夜10時すぎですが、外はまだうす明るく、窓のレースのカーテンが青白く光って見えます。余りにも静かです。聞こえるのはフーッ、フーッというフクロウの声だけです。
私は今、ダートムアというまさに荒野というにふさわしい土地に来ています。ここにはストーンサークルや列石など石器時代の巨石群が点在します。今日も一日、泥炭と牧草と岩山だけしかない荒れ地を石をもとめて歩き続けました。インフォメーションでもらった簡単な地図だけで、この人っ子ひとりいない荒野のなかで、目的の場所までたどり着くのは、本当にたいへんです。適当なところに車を止めて、そこから方位磁石とその地図をたよりに、まったく標識もない荒れ地をほとんど勘で歩きまわるのです。歩き始めてから2時間も3時間もたってもなかなか見つからず、かなり不安になって引き返そうとしたときに、はるか向こうにそれらしき石影を見つけた時は、思わずひとり声をあげてしまいます。そしてそこから望遠レンズで先ず一枚。心急くのを抑えつつ、そちらに向かってシャッターを切りながらゆっくりと近づくのです。石は逃げもしないのに、まるでアフリカで野生動物の写真を撮るときの気分です。そして、目的の石にたどり着いたとき、その石に手と頬をあててその温度と手触りを確かめます。聞こえるのは荒野を渡る風の音、そしてカッコウの鳴き声だけ。雲は飛ぶように流れます。
ストーンサークルの真ん中に立った時、私は時々、頭がジーンとしびれ、気が遠くなる時があります。昨日の午後に行ったダウン・トールというストーンサークルの真ん中に入ったときには、自分がこのまま消えてしまうのではないかと思うほどでした。そういうところは、おそらく古代の人々の特別なトポス(場)であったのでしょう。
ヨーロッパの石を撮る旅も残るところあとわずかになりました。あしたから、イギリスの南西の端、コーンウォール地方での撮影です。 (六田知弘) - 2011.06.07 アイルランド-石のざわめき
アイルランドでの10日間の撮影を終え、今、コーク飛行場の近くのB&B(朝食付きの民宿)でこれを書いています。
アイルランドは石の国でした。石器時代のストーンサークルやドルメン、石に刻まれた原始絵画やケルトの十字架はもちろんのこと、牧場の石囲いや林の中にぽつんと転がった自然石まで、すべての石がなんだか生き物のように見える妙なところです。石を撮りに来た私は、当然大満足。何も難しいことは考えることはありません。目に付いた石にカメラをむけてシャッターを押していけばいいだけですから。
こうして毎日、広い大地に風に吹かれて、ひとり立っていると、ざわざわと何だか騒がしい声が聞こえてくるように感じることがあります。どこから聞こえてくるのかとあたりを見回してもあるのは、ただ石だけです。そんな時わたしはふと思うのです。アイルランドに伝わる妖精たちの正体は、実は、この石たちではないだろうかと。石は、この世と地の世界(異界)とをつなぎます。
明日から3日間ほどポルトガル、そしてそのあとはイギリスです。 (六田知弘)- 2011.05.31 ベアラ半島 石の記憶
アイルランドの南西の端、大西洋に櫛の歯のように何本も突き出た半島のひとつ、ベアラ半島に来ています。この小さな半島の先には、「ドンの家」とよばれる冥界への入り口があるのだそうです。半島には、ストーンサークルやスタンディング・ストーンなどケルト以前の新石器時代の石の遺跡が、数多く残っていています。
こちらに来てから4日間、陽射しのない寒い日がつづいていましたが、今日ははじめて青空が望めました。といっても、紺碧の空に白い雲がぐんぐん流れ、いきなり曇ったかと思うと、真っ黒な空から霰が降ってきたりするのです。
午後8時、このところ二日続けて行っている、湖を望む丘のてっぺんに立つストーンサークルを撮りに、こちらに来てから初めての西日を受けて、車を飛ばしました。アイルランドの今頃は、午後8時といっても曇天の日でもまだまだ明るく、ましてや、今日のような天気の日はなおさらです。
人っ子ひとりいない、荒涼とした原野に立つストーンサークルは、丘の下から望んでも、案の定、澄んだ空気を透かした光を浴びて、金色に輝いているのが見えました。私は、結構急な坂道を駆け上がりました。そして、息も整えぬままカメラをとりだし、ファインダーを覗いたそのときに、最も大きな石のその下半分に何やら不審な黒い影。前に行っても後ろに引いても、その影はファインダーの外にはいってくれません。私は、やけくそになって、カメラを構えたまま、思わず天上天下唯我独尊のポーズ。その時撮ったのがこの写真です。どうです。まるで白鳳時代の誕生仏のようではありませんか!(苦笑い)
この写真を撮った後、太陽も徐々に弱まり、私はストーンサークルのまわりをぐるぐる回りながら、太陽が地平線近くまでくる午後9時半まで、シャッターを押し続けました。
風が鳴り、さっきから鳴いていたカッコウの声もいつの間にか聞こえなくなったので、そろそろ魔女たちにこの場を引き渡した方がよさそうと、車に乗り込み、宿にむかったのでした。 (六田知弘)- 2011.05.20 写真家・東松照明
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今年から大学で写真を学ぶことになった私の息子が、名古屋市美術館で開催されている「写真家・東松照明 全仕事」展を見に、ひとり、日帰りで行ってきました。分厚い図録を手に帰ってきた息子は、いつものようにあまり話しませんが、「行ってきてよかった」と一言。 東松照明(とうまつしょうめい)は戦後日本を代表する写真家で、私にとっては、写真における父親のような存在です。大学に入り、自分がどういう職業に就くべきなのか悩んでいた時、私は、土門拳の室生寺の写真に出会って写真の奥深さを初めて知り、東松照明の「日本」という写真集で爆弾をくらったような衝撃をうけて、(弟子入りを断られたのにもかかわらず)写真の道にとびこみました。東松さんは、私に写真といういばらの悪道を歩ませた張本人なのです。あれからもう30年余。
息子が買ってきた図録をめくっていると、ほとんどの作品は前からよく知っているものなのですが、それでもぐいぐいひっぱられます。東松さんの生来の才能に今更ながら驚かされ、強い嫉妬心を覚えてしまいます。それと同時にそれ以上に、東松さんの60年間の「写真」というものとの関わり方を思うと、胸がつまる思いがするのです。東松さんにとって写真とは、生きるということとほとんど同義語となっているのです。
さて、私にとって写真とは何なのか。 この道に入ってから、どこまで歩いてこられたのかわかりませんが、泣いてもわめいても、もう後戻りはできません。80歳を超えて今なお歩き続ける偉大な父の後を、息子の私は、はるか後方からふらつく足元で追いかけていくしかないのです。
そしてさて、その不肖の息子の子供である、いま、道の入り口にさしかかったばかりのわが息子は、これから写真とどういう関係をもつことになるのでしょうか。
今月25日から4週間ほど、去年につづいて石の写真を撮りにヨーロッパ(イギリス、アイルランド、そしてもしかしたらポルトガル)に行ってきます。その間、このtopicsを毎週書けるかどうかわかりませんが、去年のように少しでも現地報告ができたらと思っています。 (六田知弘) - 2011.05.11 『シトー 光の聖堂』展開催
5月16日(月)から6月4日(土)まで、新しくできた赤坂アークヒルズ フロントタワー1Fにある古美術長野で六田知弘展『シトー 光の聖堂』と題する写真展が開催されます。これは、昨年創業100年を迎えた老舗古美術店の長野さんが、ギャラリー新装にあわせて、現代の作家の作品も扱うようになり、その第一回目の個展として、私のシトーの写真展を開かれるのです。展示される写真は、店主の長野正晴さんの眼で選ばれたフランスのシトー会修道院の作品10点です。これまでにすでに発表したものが大半ですが、中には、ウインドウに飾られた一回り大きな作品のように、新たに発掘したものもあります。いずれも大判の作品で、天井の高い真っ白な空間に一点一点がよく映えています。
初日の5月16日(月)午後6時よりレセプションが行われ、それには私もまいりますので、お時間のある方は、どうぞお気軽にお立ち寄りください。 会場の古美術長野は、東京メトロ「溜池山王駅」12番出口から六本木通りを六本木方面に向かって徒歩約3分、真新しい白いビル アークヒルズ フロントタワーの道路に面した1階真ん中です。 古美術 長野の電話は03-3583-4379 11時~19時 日曜休廊です。
詳しくはpublicityの欄をごらんください。 (六田知弘)- 2011.05.06 卵岩
琵琶湖の南にある金勝(こんぜ)山を歩きました。白洲正子展にあった山肌に白い岩の塊が累々とかさなる金勝山の写真パネルが気になったものですから。
新緑の山道を金勝寺の上方から登っていくと、重ね岩、耳岩、天狗岩などと名付けられた奇妙な岩が次々とつづきます。それがよく観光地などでみる亀の形に似ているので亀石とか獅子のように見えるので獅子岩とか言われるそういう類のものとは全く違うもので、何というか、少し大げさに言うと、この世のものとは思われないような、まったく異様なものでした。30度ほどの傾斜がついた大岩の上にまったく一点の接点のみでくっついた隆線型の大石。地面に突き刺さった巨大な石斧のような岩。巨岩の上にわずかな接点だけで乗っかった丸い大岩。巨大なクジラの内臓のようだと形容すればいいのでしょうか、ぐにゃぐにゃと捻じれ、濡れたように艶があり、先端が嘴のようにピュンととんがった山のように巨きな岩塊。中でも私が最も心ひかれたのは、尾根道の脇の新緑のまばらな林のなかに、息を殺して潜んでいたモスラの卵のような丸く白い大岩です。ボスやブリューゲルの絵に登場する卵の体に首や手足が生えた怪物のようにもみえました。
こういう山道を一人歩いていると、私はよく異次元の世界に迷い込んだような気がしてきます。異界は思ったよりも結構近いところにあるのかもしれません。震災以来、私はより強くそう思うようになったみたいです。 (六田知弘)- 2011.04.28 白洲正子展
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世田谷美術館で開催されている白洲正子展に、前期と後期とでいくつかの展示作品が入れ替わるというので、結局二度行きました。なかなか良い展覧会でした。特に前期はよかった。大好きな金剛寺の日月山水図屏風も明恵上人樹上座禅図もありましたから。
はっきり言って、このところの白洲ブームには少々うんざりしていたところでした。しかし、今回の展覧会は、白洲正子にまつわる様々なことを取っ払って、結構素直に見ることができました。彼女の文章よりも、彼女が訪ね歩いた神像や仏像など、ものそのものを見せることに比重をおくことで白洲正子の世界を表す、という方法をとったのがよかったのだと思います。彼女が何を見て、何を伝えたかったのかが、彼女が心ひかれたものを見せられることによって、より明確なかたちでわかったような気がするのです。特に私のような言葉というものが苦手な人間にとってはありがたかった。
ただしかし、こうしたものは、本来、美術館でガラス越しに鑑賞する美術品ではなく、それがあるその場所まで、自らの足で訪ね歩き、それをつつむ空気のなかで対面すべきものであることが逆にはっきりしたようにも思えます。
会場に並べられたものを見ていると、これらを写真に撮りたいという衝動がむらむらと湧いてくるのを感じました。私がほんとうに撮りたいもの、それは美術品なのではなく、やはりこうした「祈りのかたち」なのだということをあらためて確認することができた展覧会でもありました。 (六田知弘) - 2011.04.21 夜桜
今年の春は落ち着かず、気づいたときはすでにどの桜もはなびらを散らし始めていて、ついに満開の花を眺めることなしに終わりました。というより、その満開の桜の下を通っていても立ち止まってそれを眺める余裕が私にはなかったということなのでしょう。
夜、犬を連れて夜の丘陵地帯を歩いていて、ふと見上げた土手の上の枝垂れ桜(?)もすでに大方の花を落として、薄明るい夜空にその神経質なシルエットをさらしていました。
しかし、撮ってきた画像をよく見てみると、針金のような枝にほんのりと若葉の緑が浮かんで見えました。もうあと一週間もすると、このあたりも夜目にもあざやかな新緑につつまれることになるはずです。
まだまだ足元の落ち着かない日々が続きます。それでも季節は廻ります。 (六田知弘)- 2011.04.14 業のはなびら
今年も高幡不動の裏山の桜の花が咲きました。小さな赤茶色の葉っぱをつけた十数本のヤマザクラは随分背が高く、仰ぎ見ると、真っ青な空にたくさんの白い花びらが吸い込まれていくのが見えました。
4月12日、福島の原発事故がチェルノブイリと同じレベル7に引き上げられました。自然への畏怖の念を忘れた人間の傲慢さに対するかみさまからの手厳しい仕打ちです。
ソメイヨシノの薄紅色の花びらも風に舞うのですが、それには無数の「業のはなびら」も混じっていて、音もたてずに降っているのを感じます。 (六田知弘)- 2011.04.08 瓦礫のなかで見つけたもの
一見したところ、普段となにも変わらないように見える仙台の市街地を抜けて、幅の広いきれいな舗装道路を海に向かって車を走らせました。そして海沿いに走る自動車専用道路を潜ったところで、いきなり視界がひらけ、地平線が見渡せました。
その異常に平らな地平線に小さく突起するもの。それは、ぐしゃぐしゃに倒壊した住宅と地面に斜めに突き刺さったり仰向けになったりした車の残骸、そして、一本の松の木でした。私は、その松の木の傍らの、白い塩が表面を覆う砂地の上に車を止めて、しばらく窓越しに、今までに見たこともない風景を、ただ呆然と眺めるしかありませんでした。
おびただしい瓦礫のなかで見つけたもの。
道路の上に乗っかった住宅の二階部分の窓から突き出たギター。シベリアの自然冷凍されたマンモスのような白い大きな象のぬいぐるみ。BMWのオープンカー。ディズニーキャラクターの幼児向け絵本。小さな革製のポシェット。習字の道具箱。黒いビジネスバッグ。アルマイトの鍋。青いマウンテンバイク。ユニットバス。図鑑「生物の冒険」。「わたし いっさいになりました」と書き添えられたおばあちゃんにだっこされた女の子の写真。ガンダムのフィギュア。白い冷蔵庫。飛行機の搭乗券の半券と機内から撮った翼の写真、そして、座席でほほえむ若い女性の写真が入ったアルバム。マージャンパイ。青紫の分厚い座布団。美しいオスのきじの死骸。金色の位牌。揚羽文の金具がついた和ダンス。赤い呉服用の草履。パソコンのキーボード。アンパンマンのお面。表札がついたままのブロック。32型シャープ製の液晶テレビ。聖教新聞。黄色い子供用ズック靴の片方。籐のバッグ。緑のドレスを着た大きな人形。小学校の運動会の写真が入ったファイル。キャッチャーミット。セルロイド製のサンタクロースの電飾。紺色のゴルフバック。アルバム ディズニーランドでおとうさんといっしょ。青いサーフボード。LPレコード。恐竜図鑑。高校基礎古語辞典。婦人用のサンダルの片方。たのしい理科6年ガイドブック。表紙にクレヨンでお父さんの顔?、裏表紙に恐竜が描かれたアルバム。大きなビニール袋に入ったたくさんのぬいぐるみ。錦織の財布。漫画本「はじめの一歩」。モノクロの慰安旅行の集合写真。エレクトーンの鍵盤。グリコのおまけ18個。黄色いスキー靴の片方。バイクでツーリングの若いカップルの写真。虎目石の数珠。化粧水の小瓶。立花隆著「農協 巨大な挑戦」。オレンジ色の花がらのポット。遺伝子の勉強らしい学習ノート。GUAMのおみやげのお菓子箱。習字のお道具箱。弘法大師のお札。施工管理技士試験の問題集。硬式野球ボール…………。
ある写真家は、この光景を見て、「神様消滅」と書きました。
しかし、これも神なるものの仕業であることを、私は知っています。 (六田知弘)- 2011.03.31 今、私のなすべきことは
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いまだ一万数千人のひとたちが瓦礫に埋もれ、あるいは、海中に漂ったままでいる。これがわれわれの住む日本です。そして、おろかにも、地中に潜むゴジラのような怪物を手なずけることができると信じたゆえに、目に見えない放射能の恐怖にさらされ続けている、これも現実の日本です。未曽有の天災、人災によって、大きく揺さぶられ続けているわれわれの国、日本。正直言ってこの現実と、これから来る困難を思うとき、たじろがないというと嘘になります。
そんな国に住む一人の日本人として、そして写真家として、この現実とどう向き合うべきなのか。被災地に入って、その現状を記録し、報道する。それは写真のなすべき極めて重要な役割であることは言うまでもありません。しかし、今、私のすべきことはそれではないと思うのです。
この軋み続ける現実から逃げることなく、よく見聞きし、身をもって感じとる。そのことを通じて写真家としての新たな視覚を模索しつづけること。それが今、私のなすべきことだと思っています。 (六田知弘) - 2011.03.25 地盤の揺らぎ
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東北関東大震災から二週間経ちました。いつまでも続く余震と目に見えない放射能に対する怯え。大丈夫だと頭ではわかっていても、じわじわと真綿でしめつけられるような不安を感じ続ける毎日です。東京の電車の乗客の表情も明らかに、いつもと違い不安げです。自分たちがよって立つ、確かなものだと信じていた、この日本の地盤自体が揺らいでいるように思えます。
今はただ、ぐっと足を踏ん張って、自らの足元を見つめ直してみる時なのだと思います。 (六田知弘) - 2011.03.18 2011年3月11日
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「雲岡 仏宇宙」展の最終日の前日、激しくそして長い揺れが東日本を襲いました。いままでに経験したこともない強烈な揺さぶりでした。強い揺れが間をおかずに二度続いてきたように思います。一度目は、受付の机の中にもぐりこみました。続いての揺れのときには大きな本棚が倒れてこないように立って押さえながら、展覧会に来てくれたお客さんや、たまたま来ていた私の息子の様子を見ていましたが、みんな結構冷静でした。しかし、揺れはいつまでたってもおさまりません。これはただ事ではないと思いました。ついにその日が来たのだ、と覚悟しました。壁にひびが入ってくるのではと、写真がかけられた壁面を見ていました。
その十数分後、考えられないような大津波が東北、北関東の太平洋岸を襲い、計り知れない被害を出しました。それにつづいて福島第一原子力発電所でつぎつぎと起こる悪夢のような深刻な事態。
現代の日本が乗っている、文字通り地殻の部分が大きく揺らぎ続けているこの数日です。 それでも私は、日本には、この大きな危機を乗り越えて、新たな未来を拓く力はあると信じます。 (六田知弘) - 2011.03.10 雲岡のめまい
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雲岡の写真展の会場に毎日つめています。連日多くの方々においで頂き、とても光栄です。
ただ、疲れが出てきたからかもしれませんが、正直言って、ずっとあの写真に囲まれた空間に居続けるのはそんなに快適というものではありません。なんだか眩暈のようなものを私は感じてしまいます。それが、日に日に強くなってくるようです。温泉の湯あたりならぬ仏の気にあてられているのかもしれません。そういえば、撮影の時にも軽い眩暈のようなものをずっと感じ続けていたように思います。
私は、そうしたモノが発するエネルギーを自分の写真の中に写し込められればといつも思っているのですが、無数の仏たちが放出する波動の束は、どうやら単純に、たくさん浴びるとそれだけ心地よくなる、というわけでもないようです。
写真展は3月12日までです。少しの時間ならこの気を浴びたほうがより元気になるのはうけ合いです! 会場で、お待ちしております。 (六田知弘) - 2011.03.03 写真展「雲岡 仏宇宙」開催中
雲岡の写真展、はじまりました。大きく伸ばしたものを展示して自分自身驚いたのは、その立体感です。窟内の薄暗いなかに現れる仏や飛天などの彫刻が、写真の画面は平面にかかわらず、浮き出たり、へこんだりしているように見えるのです。撮影した時の光の具合でそうなったのか、カメラの解像度のせいなのか、あるいはプリントの調子や大きさの具合でか。12日の最終日まで、私はできるかぎり会場にいるつもりです。その間、写真を撮ってプリントした私自身にもわからない、その視覚のトリックの秘密を探ってみようと思っています。 (六田知弘)
- 2011.02.24 「雲岡 仏宇宙」展が始まります。
いよいよ写真展「雲岡 仏宇宙」が近づいてきました。先日、額縁屋さんから作品が会場の繭山龍泉堂に届き、あとは、それを壁面に設置して、ライティングをするだけとなりました。
ご記憶にある方も多くいてくださることと思いますが、ちょうど6年前、2005年の2月から3月にかけて、私は、同じ繭山龍泉堂で「雲岡」という写真展を催しましたが、その時は、特別な許可がいらないところから撮影したものでした。フェンス越しに暗い窟内に望遠レンズを差し込んでの撮影は、非常に歯がゆく、もどかしいものでした。ですので、その時に展示したものは、窟の内部はあまりなく、外から見えるものが主でした。それでも、雲岡のスケールの大きさや、彫刻の素晴らしさは十分感じていただけたと思います。
しかし、今回は、日中双方に信頼の厚い東山健吾先生のご紹介をいただいたおかげで、雲岡石窟のほとんど全窟を内部に入って、自由に撮ることができました。外国人写真家によるこうした撮影は、実に67~8年ぶりだと聞いています。
雲岡石窟の内部は、外からはうかがい知れない、仏の気に満ちた空間でした。撮影をしながら、私は、石窟一面に彫られた無数の仏から、気のシャワーを浴びているようでした。
3月1日(火)から12日まで、期間中土日も休まず11時から18時までご覧いただけます。もちろん入場は無料です。会場の繭山龍泉堂(まゆやまりゅうせんどう)は、銀座線「京橋駅」、あるいは都営浅草線の「宝町駅」から、徒歩2~3分です。電話は、03-3561-5146です。私は、基本的には、毎日会場にいる予定です。ご来場をお待ちいたしております。 (六田知弘)- 2011.02.17 雪の朝
今年は、全国的に大雪で、いろいろと被害が報道されています。
先日、東京の多摩地域でもこの冬はじめての本格的な積雪となりました。朝、車の屋根に積もった雪を見ると13㎝はあったでしょうか。これを降雪量130ミリというのか、それとも解かして水にしたものを測って降雪量何ミリというのかな、などと、とりとめないことを考えながら手袋をはめて、その雪をおとしました。玄関先と、前の道路の雪かきも、少し汗をかきながらやりました。
今、息子は大学受験の真っ最中。自分の時もちょうどこんな大雪になったことを思い出し、過ぎ去る時の速さを感じています。
写真展「雲岡 仏宇宙」もあと10日あまりで始まります。プリントは、すでに額縁屋さんに渡してあり、あとは、それが会場に届けられるのを待って、展示をするだけです。
3月1日から12日までの期間中、3月6日の日曜日もふくめて無休です。ぜひ、お立ち寄りください。会場でお待ちしております。(六田知弘)- 2011.02.10 夜の紅白梅
夜、犬の散歩をしていて、住宅街のはずれの小さな畑の際で、梅の木を見つけました。
街頭の明かりに照らされて、紅や白の花が今を盛りに咲き乱れています。
よく見ると、光琳の紅白梅図のように、紅い花の木と白色の花の木との二本の木ではなく、一本の木の幹から紅色の花を付けた枝と白色の花をつけた枝との両方がそれぞれ同じぐらいの数だけのびているのです。たぶん、だれかが挿し木などをして、人工的にこの紅白梅をつくったのでしょう。盆栽などではこうしたものを時々見ますが、こんな大きな木を見るのははじめてのように思います。
私は、犬をつれて自宅に帰り、カメラと三脚をもってその木のところに戻ってきて、かすかに漂う夜の香りにつつまれて、しばらくの間、写真を撮りました。(六田知弘)- 2011.02.02 新燃岳の噴火
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宮崎・鹿児島県境の霧島連峰のひとつ新燃岳が爆発的噴火を繰り返している様子がテレビに映し出されています。
高さ3000メートルまでとどくという噴煙はものすごく、降りしきる火山灰と土石流の心配、そして空振によってガラスが割れたりする被害などの報道を聞くと、日本は火山国だということをあらためて知る思いです。空振といえば、二十年ほど前の三原山の噴火のときにも、東京町田の自宅の窓も、ビリビリと震えたことを思い出します。
新燃岳の近くには、霧島温泉をはじめ、いい温泉が多数ありますが、その名も新燃荘という山の中にぽつんと建つ湯治場が私のお気に入りです。
鄙びた木造の宿泊用建物が、斜面に数棟ならび、一番下に、青みを帯びた白濁の湯をたたえた露天風呂と木造の屋根つきの風呂場があります。この湯につかって、星空を眺めていると、日本に生まれた喜びをしみじみと感じます。
でも、現地のいまは、それどころではないでしょう。
大きな被害が出ないよう願うばかりです。
ここ数日取り組んでいた雲岡の写真展用プリントも何とか今日で、終わりそうです。 (六田知弘) - 2011.01.26 雲岡の展示空間
3月1日からの写真展「雲岡 仏宇宙」の展示の構成がほぼ決まりました。 昨年の丸の内ギャラリーでの写真展「壁の記憶」の構成や展示方法は、大方をギャラリーの方にお任せしたのですが、それが非常に好評で、私自身も展示の仕方でこんなにも印象が違うものだということをあらためて知りました。
ですので、今回の雲岡の構成や展示の仕方も、自分一人で決めるのではなく、学生時代からの知人と相談しながら決めました。(決めたといっても、もちろん、実際の会場に設置するときは、臨機応変に写真の入れ替えなどはするつもりですけれど。)
「雲岡石窟」というそれ自体が圧倒的な意味をもつ被写体。それを淡々と撮影しながら、私自身がほぼ無意識のうちに感じ続けていた「仏の宇宙の波動」のようなものを、感じていただけるような展示空間にしたいと思っています。 (六田知弘)- 2011.01.20 光の粒子と「柿」図
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二十数年前に出した私の初めての写真集『ひかりの素足-シェルパ』は、ヒマラヤの村で、延べ18か月間暮らし撮影したものですが、そのあとがきに私はこう書いています。
「・・・そこでは“光”はほとんど粒子となってみえる。粒子は、物にぶつかり、その輪郭を浮き立たせる。そして、それは影をつくり、影は闇を現出させる。あくまでも明瞭な闇が逆に物の輪郭をきわだたせるともいえる。そうした光の拡散と密集のめまぐるしい交錯のせいか、ぼくはしばしば奇妙な眩暈に引き込まれた。カメラを構えて世界を覗き込みながら、なぜかぼくは異界の入り口にいると感じた。そしてまた、この世界と異なる世界が、境界をおかして随所で侵入してくるのを感じた。・・・」
今年最初のこのトピックス欄で書いた牧谿筆と伝えられる「柿」図をあらためて見ながら、私は、ヒマラヤの村で見えていた(ように感じられた)光の粒子のことを思い出しました。
光の粒子が集まって、人や柿や石など森羅万象のかたちを現出させる。その無数のそれぞれの粒子は、はげしく明滅しながら動いていて、その粒子の集合体である物のかたちも、ある特有の波動を生じながら、刻々と変化し、動いている。そしてこれら現象の世界は宇宙とのつながりにおいて語られる。
おそらくこの「柿」図は、10分やそこらで、ささっと描かれたものでしょうが、その描かれた6個の柿からは、宇宙の波動のようなものを、私は強く感じるのです。ああ、こんな写真を死ぬまでに一枚でも撮りたいと、思うのです。 (六田知弘) - 2011.01.13 冬陽差すホームで
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この冬一番冷え込んだ日、コートのポケットに手をつっこんだまま、乗り換え駅のホームのベンチに座って3分後にくる電車を待ちました。
ベンチには午前の日差しがまともに照り付けていて、まぶしさに弱い私は、思わず目をつむりました。目を閉じたまましばらくすると、冷え切った顔面がぽかぽかと温まり、そのうち、特におでこのあたりが何とも言えず気持ちよく、むずむずと動いて、まるで眉間のすぐ上にあるといわれる第三の目というか、チャクラというか、そんなものがゆっくりと開いてくるような感覚を覚えました。単に外気に触れて冷えた顔面が、太陽の光で暖められて熱を感じているだけのことなのですが、こうして冬の陽の暖かさをあじわうのは、ヒマラヤの村で暮らしていたとき以来本当に久しぶりのような気がします。
電車がホームに入ってきてドアが開く音が聞こえてきても、発車ぎりぎりまで私はそうして目を閉じていたのです。ただそれだけのことですけれど・・・。(六田知弘) - 2011.01.07 「柿」図
年末に、雲岡の写真のことを考えながら、何気なく家の本棚にある画集の一つを手に取ってぱらぱらめくっていると、牧谿筆と伝えられるあの竜光院の「柿」の絵のところで、めくる手が止まりました。そしてそのまましばらく私の時間も止まりました。
今年は、こんな写真をたった1枚でもいいから撮りたいものだと、年が明けて、あらためて思いました。
良い年となりますように。(六田知弘)